1982年~85年
第1次黄金期、広岡時代

前年勇退した根本監督に代わり広岡達朗監督が采配をふるった。
広岡監督はヤクルトで実証済みのアメリカ流管理野球を徹底し、根本監督が言い残した「勝つ野球」を実現した。
西武の第1次黄金時代が始まった。
管理野球の下、投手陣は完全分業制となり、先発・セットアップ・リリーフを明確に区別した。チーム創立4年目にして勝てるチームとなった西武。
1982年、初のリーグ優勝、初の日本一
1983年、130試合86勝、圧勝でリーグ2連覇、2年連続の2度目の日本一
1984年、ベテラン勢の不振が響き、3位
1985年、若い力が躍動し2年ぶり3度目の優勝、日本一は逃す
若手が力をつけ始め、強さに磨きをかけた。
健康上の理由で1985年のシーズン終了後に勇退した広岡監督であるが、根本監督が基礎を築いた最強の遺伝子を見事に成長させた功績は大きかった。
そして、翌年から森祇晶監督によって始まる新たな歩みにも多大な影響を与えることになる。
監修:杉山茂(スポーツプロデューサー)
チーム成績
年度 | 順位 | 監督 | 試合数 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1982年 | 優勝 | 広岡達朗 | 130 | 68 | 58 | 4 | 0.540 |
1983年 | 優勝 | 広岡達朗 | 130 | 86 | 40 | 4 | 0.683 |
1984年 | 3 | 広岡達朗 | 130 | 62 | 61 | 7 | 0.504 |
1985年 | 優勝 | 広岡達朗 | 130 | 79 | 45 | 6 | 0.637 |
打撃成績
年度 | 打率 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982年 | 0.253 | 130 | 4226 | 529 | 1070 | 164 | 15 | 131 | 504 | 70 |
1983年 | 0.278 | 130 | 4333 | 700 | 1204 | 201 | 26 | 182 | 685 | 58 |
1984年 | 0.256 | 130 | 4214 | 593 | 1078 | 200 | 20 | 153 | 572 | 86 |
1985年 | 0.272 | 130 | 4302 | 655 | 1168 | 188 | 26 | 155 | 625 | 93 |