デストラーデ氏の功績 (執筆 プロ野球史家 綱島理友)

森祇晶監督の下、9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成した西武ライオンズ。1990年から92年まで日本シリーズ三連覇を成し遂げたチームの打線の中心にいたのが「カリブの怪人」オレステス・デストラーデ選手でした。

ここに画像が入ります
  • 1992 LIONS NEWS

1962年、キューバのサンティアーゴ・デ・クーバ生まれ。6歳の時に家族とともにアメリカ、フロリダへ移住。その後ニューヨークへ移り住みますが、家族はデストラーデ選手が9歳の時にフロリダへ戻り、マイアミのキューバ出身者コミュニティで暮らし始めました。ここで野球に取り組むようになりました。右投げ右打ちでプレーしていましたが、10歳の時にバスケットボールのプレー中に、左手のほうが上手くプレーできることに気づきます。そのことを父親に伝えると「そういえばお前は左利きだった」と言われ、左打ちに転向します。
右投げ左打ちとなったデストラーデ選手でしたが、左打席ではどうしても左投手の変化球にタイミングが合いません。そこで左投手の時だけ右打ちに戻すことにしました。これがスイッチヒッターとしてのスタートでした。

高校時代の80年、カリフォルニア・エンゼルスからドラフト23巡目で指名を受けますが、大学へ進学。大学在学中の81年にニューヨーク・ヤンキースと契約します。しかしケガなどもありマイナー生活が続きました。メジャーデビューは87年9月11日。トロント・ブルージェイズ戦に代打で出場しフォアボールで出塁しています。
翌年、ピッツバーグ・パイレーツに移籍。この年の9月には、のちにメジャーリーグ屈指の剛腕投手となるランディ・ジョンソン投手(モントリオール・エキスポズ)のデビュー戦で対戦。ジョンソン投手のメジャー初奪三振の相手として記録に残っています。

翌89年6月、ライオンズの新外国人選手として来日。NPBデビュー戦となった6月20日のオリックス戦(西宮)で来日第1号本塁打を放っています。
7月には3試合連続本塁打を2度マークするなど、83試合で32本塁打を記録。9月には8本塁打、19打点で月間MVPに選出される活躍を見せます。

ここに画像が入ります
  • 1989 LIONS NEWS

続く90年の8月に3打席連続本塁打を記録。9月には左右打席本塁打も記録するなど、本塁打を量産しチームをリーグ優勝に導きました。42本塁打106打点で本塁打と打点の二冠を獲得。スイッチヒッターが本塁打王を獲得したのはNPBでは初の快挙でした。
巨人との日本シリーズでは、第1戦第1打席に特大の3ランを放つなど、16打数6安打8打点の活躍を見せ、シリーズMVP。ライオンズ4連勝の日本一に貢献しました。

91年は開幕から打撃が好調。4月11日から3試合連続本塁打を記録するなど、4月だけで7本塁打を放ち、ライオンズの開幕8連勝に貢献します。
8月には通算100号本塁打を達成。39本塁打90打点で二年連続の二冠を獲得しています。

92年には初めてオールスターゲームにも出場を果たし、41本塁打で外国人選手としては初となる3年連続の本塁打王を獲得。DH部門でのベストナインも3年連続で受賞しました。

日本シリーズにめっぽう強く、90年(対巨人)、91年(対広島)、92年(対ヤクルト)と日本シリーズで史上唯一の3年連続開幕戦第1打席本塁打を記録。西武を3年連続日本一に導きました。

ここに画像が入ります
  • 1990 LIONS NEWS

92年オフ、第2の故郷ともいえるフロリダに新設されたフロリダ・マーリンズに誘われ、メジャーへ復帰します。1年目は四番に座り20本塁打87打点を記録しています。
95年にライオンズへの復帰も果たしますが、故障もあって引退を決意。6月11日、西武球場での試合後、ファンに別れの挨拶をしました。

ここに画像が入ります
ここに画像が入ります

親日家で日本語も堪能。本塁打を打った後の弓を引くような派手なガッツポーズは印象的でした。そしてチームメイトからもファンからも愛された陽気なキャラクター。デストラーデ選手は西武ライオンズの第2次黄金期を語る上で欠かせないレジェンドのひとりです。

執筆 プロ野球史家 綱島理友