田淵幸一氏の功績 執筆 プロ野球史家 綱島理友

2020年、西武ライオンズOBの田淵幸一さんが野球殿堂入りをされました。
田淵さんは1979年4月7日、新生・西武ライオンズの船出となった近鉄バファローズ戦でチーム初代の4番を務めました。

法政大学時代、後年共にプロ入りを果たす山本浩二選手、富田勝選手との「法大三羽ガラス」として活躍。当時の東京六大学野球リーグの新記録となる通算22本塁打を記録しました。
1968年のドラフトで1位指名を受け、阪神タイガースに入団。強肩強打の捕手として1年目から活躍、新人王に輝きます。1975年には43本塁打を放ち、前年まで13年連続で本塁打王のタイトルを独占していた読売ジャイアンツの王貞治選手を抑え、本塁打王を獲得しました。

田淵選手が西武ライオンズに移籍してきたのは1978年のオフ。
阪神から田淵選手と古沢憲司投手、クラウンライター・ライオンズ(当時)から竹田和史選手・竹之内雅史選手・真弓明信選手・若菜嘉晴選手が移籍するという大トレードでした。

田淵選手の獲得について根本陸夫監督は後に「勝てるチームを作る。そのために投打の両面で柱となり軸となる選手がいなくてはなりません。投のほうには東尾修がいました。打つほうでは他5球団を圧倒する選手が欲しい。それが田淵幸一でした」と話しています。
ライオンズ移籍後は主に一塁手、指名打者での出場が増え、2年目の1980年に43本塁打を記録します。1982年には西武初のリーグ優勝、日本一に貢献。

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  • 打者 田淵幸一氏
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  • 1983年日本シリーズ表彰式後の田淵幸一氏

読売ジャイアンツのとの対戦となった翌1983年の日本シリーズでは、第1戦で江川卓投手から、第5戦で西本聖投手からホームランを放ち、チームを2年連続の日本一へと導くとともに、シリーズの優秀選手に選ばれています。
この年、田淵選手はハイペースでホームランを重ね、6月までに29本塁打を記録していました。ところが7月13日に手首に死球を受け戦線離脱を余儀なくされます。ケガの完治を待たずに10月4日に戦列復帰しましたが、復帰後14試合で打率.234、1本塁打、4打点と調子が上がらないまま日本シリーズを迎えます。当時、日本シリーズでは指名打者制を採用していなかったため、日本シリーズでの先発起用は難しいと思われていた田淵選手でしたが、シリーズ直前の特打で感覚を取り戻すと、七戦全てに「四番・ファースト」で先発出場を果たし、打率.364、2本塁打、6打点の活躍を見せました。
この活躍が評価されこの年、プロ野球の発展に最も貢献した球界関係者に贈られる『プロ野球正力松太郎賞』も受賞しています。

三連覇を目指して臨んだ1984年。結果的に3位となったこのシーズンが田淵選手の現役最後の1年となります。
引退試合となった9月25日の阪急ブレーブス戦では、9回に移籍1年目の1979年以来5年ぶりにマスクをかぶり、「キャッチャー・田淵」として現役生活を締めくっています。

引退後はダイエーホークス(現ソフトバンク)の監督を務めた後に、阪神タイガース、北京オリンピック日本代表、東北楽天ゴールデンイーグルスのコーチとして、大学時代からの盟友・星野仙一監督を支えました。
滞空時間が長く美しい放物線を描くホームランでファンを魅了した「ホームランアーチスト」。
西武ライオンズ創成期に主砲として活躍された田淵幸一選手の野球殿堂入りを心から祝福したいと思います。