稲尾和久氏の功績 (執筆 プロ野球史家 綱島理友)

プロ野球選手で最初に「神様」と呼ばれたのは、埼玉西武ライオンズの永久欠番である「24」をつけていた稲尾和久さんでした。

稲尾投手は、1956年に別府緑ヶ丘高校から西鉄ライオンズに入団。当初はそれほど期待をされていなかったのですが、キャンプで打撃投手を務めながらコントロールを磨き、その制球力の良さから中西太、豊田泰光らの主力打者たちに認められ、頭角を現します。
西鉄ライオンズは稲尾投手のルーキーイヤーから日本シリーズ三連覇を飾りましたが、稲尾投手は紛れもなくその原動力となっており、なかでも特にすごかったのが、三連覇の年となった58年の日本シリーズでした。
対戦相手の読売ジャイアンツにはこの年、スーパールーキーの長嶋茂雄選手が入団。勢いのある相手に西鉄ライオンズはいきなり3連敗を喫します。
ところがここから、プロ野球史上初の奇跡の4連勝での大逆転。日本一となりました。稲尾投手は全7試合のうちの6試合に登板。そのうち5試合に先発し、4試合で完投しました。逆襲開始から2試合目の第5戦では、延長10回に自らチームに勢いをつけるサヨナラ本塁打も放ち、一人で日本シリーズ4勝と、その超人的な活躍から当時21歳の投手に「神様、仏様、稲尾様」というフレーズが誕生しました。

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  • 西日本スポーツ1958年10月18日≪許諾済≫
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  • 西日本スポーツ1958年10月22日≪許諾済≫

翌59年限りで野武士軍団と呼ばれた西鉄ライオンズを育て上げた三原脩監督が退陣すると、チームはしばらくリーグ制覇から遠ざかります。しかし、稲尾投手はその後もエースとして連日のように登板。61年にはシーズン最多勝タイ記録となる42勝をあげます。そのタフネスぶりから稲尾投手は「鉄腕稲尾」とも呼ばれました。ご本人も気に入っていたようで、サインを求められると自らのサインの横には「鉄腕一代」と記していたと伝えられています。

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  • 西日本スポーツ1969年11月1日≪許諾済≫

稲尾さんの功績は、大車輪の活躍をした選手時代だけではありません。
69年、西鉄ライオンズは「黒い霧事件」という不祥事で世間の信用を失う事態になってしまいます。この大ピンチのときに監督を引き受け、懸命にチーム立て直しに取り組んだのも稲尾さんでした。エースをはじめとした主力投手を永久追放などで失う中、東尾修投手をはじめとした若手を抜擢。打たれても、打たれても登板機会を与えて鍛え上げました。73年に球団は福岡野球株式会社に譲渡され、チームは太平洋クラブライオンズとなります。これを機に稲尾監督は背番号を「81」に変更。翌74年まで監督としてチームを率いました。
稲尾監督に鍛えられた東尾投手はその後ライオンズのエースとなり、監督となり、長きに渡りライオンズを支え続けました。そしてその東尾監督に抜擢され、中心選手として活躍した松井稼頭央と西口文也も、次の世代を担う選手を鍛える一軍、二軍監督に就任しました。西鉄ライオンズ稲尾和久さんの想いはさまざまな縁を経て、今の埼玉西武ライオンズにも確実に受け継がれています。

とあるライオンズの現役選手と稲尾さんを結ぶ、このようなエピソードがあります。
その選手はこどもの頃、父親が稲尾さんと会う機会があったことで、サイン色紙をもらったそうです。色紙にはその選手への宛名と「善敗己由」という四字熟語が書かれていました。「良いも悪いも自分次第」という意味の漢文です。その少年に稲尾さんが贈った言葉は、やがてライオンズの後輩となることを予想していたかのような、日頃の心がけについての言葉でした。現役時代のサインには無敵を誇る「鉄腕一代」と記していた稲尾さんでしたが、泥沼にはまり込んだチームの監督を引き受けて逆境を耐え忍ぶ中、たどり着いたのが「善敗己由」という言葉だったのかもしれません。しかし、この言葉を心の支えとした少年は、十年後、ライオンズに入団、生え抜き選手としては球団初の2000本安打を達成します。そう、その時の少年こそ、不惑を迎える今シーズンもチームの精神的支柱として活躍する栗山巧選手です。
2012年に埼玉西武ライオンズが開催したライオンズクラシックのテーマは「稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム ~背番号「24」の記憶~」。背番号「24」はこのときからライオンズの永久欠番となりました。このメモリアルゲームに、この年からチームキャプテンに就任した栗山選手も出場。ライオンズの選手全員が背番号「24」のユニフォームを着用して挑んだこの試合、栗山選手の背中でも「24」が躍動していました。

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  • 稲尾和久さんが栗山巧少年に宛てたサイン色紙(提供:栗山巧選手)