1972~78年
激動の時代

波乱に満ちた7年間である。親会社、経営母体やスポンサーが代わったことにより“西鉄ライオンズ”→“太平洋クラブ・ライオンズ”→“クラウンライター・ライオンズ”→“西武ライオンズ”と3度の名称変更が行われ、目まぐるしい変化の時期を送った。経営難を背景にチームも不振が続いた。ただ、1975年に東尾修や白仁天、土井正博の活躍により、通年3位と回復を見せ、“最強”の復活を期待させた。しかし、その期待は長くは続かなかった。

そんな中でも、1973年のロッテとの「遺恨カード」騒ぎや1977年のドラフトでの「江川卓の交渉拒否」などマスコミを賑わした。

1978年、経営難により、ついに九州でのライオンズの歴史に終わりが告げられた。チームは本拠地を福岡の平和台から埼玉県所沢市に移し、西鉄クリッパースの時代からさまざまな伝説の舞台となった平和台を離れたのである。

そして、西武ライオンズが誕生した。

監修:杉山茂(スポーツプロデューサー)

チーム成績

チーム名 監督 順位
(前期/後期)
試合数 勝率
1972年 西鉄ライオンズ 稲尾和久 6 130 47 80 3 0.370
1973年 太平洋クラブ・ライオンズ 稲尾和久 4/5 130 59 64 7 0.480
1974年 太平洋クラブ・ライオンズ 稲尾和久 3/4 130 59 64 7 0.480
1975年 太平洋クラブ・ライオンズ 江藤慎一 2/4 130 58 62 10 0.483
1976年 太平洋クラブ・ライオンズ 鬼頭政一 6/6 130 44 76 10 0.367
1977年 クラウンライター・ライオンズ 鬼頭政一 6/5 130 49 73 8 0.402
1978年 クラウンライター・ライオンズ 根本陸夫 4/5 130 51 67 12 0.432

打撃成績

打率 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁
1972年 0.242 130 4236 439 1023 157 17 110 412 97
1973年 0.239 130 4224 499 1011 134 18 116 470 106
1974年 0.235 130 4197 436 988 141 9 90 410 88
1975年 0.261 130 4367 530 1139 156 14 135 504 95
1976年 0.259 130 4336 450 1122 108 21 115 430 72
1977年 0.249 130 4293 468 1071 127 12 128 448 90
1978年 0.268 130 4403 497 1181 129 15 109 482 93

投手成績

防御率 試合 勝利 敗北 セーブ 完投 完封 投球回 奪三振 失点
1972年 4.12 130 47 80 - 26 8 1138 524 598
1973年 3.58 130 59 64 - 34 10 1150 495 509
1974年 3.46 130 59 64 13 31 10 1146 560 482
1975年 3.73 130 58 62 9 53 8 1164 523 563
1976年 4.08 130 44 76 10 48 7 1146 471 594
1977年 4.27 130 49 73 16 34 6 1138 493 598
1978年 3.75 130 51 67 5 51 7 1149 469 582