since 1951 SPIRIT of KING 獅子の敵は、獅子だ。 特別対談

Vol.5

「球史に名を刻むホームランキング」

オレステス・デストラーデ × 山川穂高







歴代最強の助っ人スイッチヒッター

オレステス・デストラーデ

1989年の、“遅すぎた”来日。
1979年にクラウンライターライオンズが西武ライオンズに生まれ変わり、所沢へ移転してからの10年間でリーグ優勝は6度、日本一は5度を数えた。まさに黄金時代。ライオンズブルーとも言われたユニフォームの鮮やかな青、まだまだ真新しさの残る西武球場に敷かれた人工芝の緑、そして陽気な選手たちは、誰もが明日は今日よりも素晴らしいと信じて疑わなかったような、その当時を象徴するようでもあった。時代も昭和から平成へ。歴史の分岐点となった1989年。ライオンズも、さらなる高みを目指していった。

1988年までリーグ4連覇、日本一は3年連続だったが、その1988年は薄氷のリーグ優勝だった。最終戦まで優勝の可能性を残した近鉄が、“10.19”と語り継がれるロッテとのダブルヘッダーで連勝できず、ゲーム差ゼロの2位。先に全日程を終了し、静かに優勝を迎えたナインは、近鉄ナインの思いも背負って日本シリーズに臨み、3年連続の日本一を果たした。

だが続く1989年、前年デッドヒートを繰り広げた近鉄、阪急から生まれ変わったばかりのオリックス、そして西武は三つ巴で優勝を争うことになった。そんな1989年6月、チームの主軸を務め、不振を極めていた助っ人・バークレオの穴を埋めるべく来日したのがデストラーデだ。ただ、来日のタイミングが数日ばかり遅かったかもしれない。結果的に1989年シーズンは、近鉄の執念に後塵を拝し、0.5ゲーム差の3位に終わる。デストラーデは83試合の出場のみだったが、それでも32本塁打。彼の来日がもう少し早ければ、V5を果たしていたかもしれない。
1990年の、AKD砲。
陽気な男だったが、波乱万丈の人生を送ってきた。6歳のときにキューバからメキシコ経由でアメリカへ亡命。9歳でマイアミにあるキューバ出身者のコミュニティへと移って、そこで野球を始めた。右投げ右打ちでプレーしていたのだが、「バスケットボールのシュートで左手のほうがうまくいく、と言ったら、父親が『忘れてた。お前はもともと左利きだったんだ』って(笑)」。物心つく前に右利きに矯正されていたことを知ったのが10歳のときだ。そこで左打ちに挑戦。ただ、左投手の変化球にタイミングを崩されるため、左投手のときだけ右打席に入るようになる。これが西武の黄金時代に輝く助っ人スイッチヒッターが誕生した瞬間だった。

1981年にはヤンキースと契約したが、右足の大ケガもあってメジャー昇格は1987年。翌1988年にパイレーツへ移籍し、マイナーでのスタートとなった1989年にライオンズから誘われた。当時は3番に秋山幸二、4番に清原和博が並ぶ“AK砲”が猛威を振るっていたが、ともに右打者。そこにスイッチのデストラーデが5番で続くことで、“AKD砲”として劇的な進化を遂げる。それまでにもV9巨人の王貞治、長嶋茂雄ら“ON砲”のように、2人の長距離砲がクリーンアップに並ぶ例は見られたが、3人そろって本塁打を量産したのは異例。「史上最強のクリーンアップ」という呼び声は決して大袈裟ではない。

初めてプロ野球の開幕戦を経験した1990年は、そのまま全試合に出場して42本塁打、106打点で本塁打王、打点王の打撃2冠に輝く。ライオンズも独走で王座を奪還。日本シリーズでは無傷の4連勝で巨人を圧倒したが、第1戦(東京ドーム)の1回表、第1打席で日本一への号砲を打ち鳴らしたのがデストラーデだった。そのまま2本塁打、8打点、打率.375でMVPに。ライオンズの黄金時代も頂点を極めた。
1992年の、3年連続ホームラン王。
翌1991年も39本塁打、92打点で2年連続の打撃2冠。翌1992年は打点王こそ逃したものの、3年連続で本塁打王となる41本塁打を放つ。本塁打は数だけでなく飛距離でも周囲の度肝を抜いた。日本シリーズでも猛打は変わらず。広島と激突した1991年も第1戦(西武)の第1打席で本塁打、ヤクルトと初の顔合わせとなった1992年にも第1戦(神宮)の第1打席で本塁打。ライオンズも3年連続で日本一に輝いているが、デストラーデが3年連続で本塁打王、そして日本シリーズの第1戦、第1打席で本塁打を放つ前代未聞の快挙を成し遂げた3年が重なっているのは、おそらく偶然ではないだろう。

1990年からの3年間で122本塁打を残している。「遠くに飛ばすパワーの面では問題なかったが、あとから始めた分、高い集中力が必要だった」という左打席からは96本塁打。右投手が多いため打席の数も4倍ほどだが、一方で「利き手の左手でバットコントロールができる右のほうが飛距離も打率も自信がある」という右打席では、打率.304の安定感を誇った。

“カリブの怪人”の異名を取り、本塁打の後に見せる空手のようなパフォーマンスでも人気を博したが、愛称は“オーレ”。親日家で、日本語も堪能だったが、なぜか関西弁で、そのキャラクターはチームメートやファンに親しまれた。1992年オフに退団し、新設されたマーリンズでメジャー復帰。1年目は4番も打ったが、その後は不振に陥る。デストラーデがマイナー降格か退団かの選択を迫られていることを知ったライオンズが1995年に再契約。故障もあって6月には退団となったが、5月にはファンサービスで高校時代に経験のある投手としてリリーフ登板。試合を終えて「夢だったんだ」と声を弾ませる一幕もあった。

2リーグ制になった1950年以降、3年連続でホームラン王に輝いたのは、パ・リーグでは中西太(西鉄)、野村克也(南海ほか)、そしてこのデストラーデの3人だけだ。その偉業に今季、山川穂高が挑む。山川もデストラーデ同様、陽気な性格でファンの心を掴んでいる。






3年連続キングを狙う新背番号「3」

山川穂高

2019年の、2年連続本塁打王。
一歩一歩、着実に足場を固めてきた。

2014年、埼玉西武ライオンズが誇る日本球界屈指のホームラン王・中村剛也に体型も打撃フォームも「そっくり」なことから、“おかわり二世”と期待され入団。そのルーキー年、プロ初安打が初本塁打(9月15日楽天戦)という華々しい記録を刻んだほか、ファームでは21本塁打を放ち、イースタン・リーグ本塁打王に輝いた。

3年目の2016年は8月から本格的に1軍に定着し、出場49試合ながら14本塁打と自身初の2ケタ本塁打を記録する。また、2軍でも2度目の本塁打王を獲得した。

2017年8月2日、楽天戦で3打席連続本塁打の偉業をマーク。9月からは4番に座り、本格的に主力定着へと名乗りを上げる。翌2018年シーズンでは開幕から4番を任され、47本塁打で本塁打王を獲得。リーグ優勝の立役者となり、シーズンMVPにも選ばれた。そして2019年、2年連続本塁打王獲得――。

と、プロ入りからここまでのキャリアを簡単に振り返っただけでも、1軍・2軍を問わず数々の功績が並ぶ。だが、決して順風満帆ではなかった。その裏では、毎年のように挫折と葛藤に直面し、考え、必死で立ち向かい、自らの力で乗り越えてきたのである。
2017年の、“慣らし”からの卒業。
1年目から、「自分は、慣れるまでに一回りは見たいタイプ」と結果が出るまでに時間がかかる不器用さを素直に認めていた。特に初対戦の場合は、相手投手のデータをある程度頭に入れ、とにかくまずは一度、打席に立って、しっかりと“自分の感覚”でその投手の球を見て、感じ、対戦の雰囲気をインプットし、分析する。本当の勝負はそこからだ。「プロ野球は、その後、何度も同じ相手と当たります。相手の攻め方が分かってきたところで、じゃあ、その攻め方に対し、自分の力をどれだけ発揮できるか」ということの繰り返しの中で、戦っていくのだ。いかにも理論派の山川穂高らしい考え方だ。

実際、試合に出続けられるファームで、1年目から本塁打王を獲得していることからも、それが決して言い訳ではないことは明白だろう。だからこそ、1軍で結果が出るためには、少し時間がかかっている。1年目からチャンスを与えられてはきたが、いきなり中村、エルネスト・メヒアの牙城を崩して先発出場するのは無理な話。まずは代打として1打席の中でアピールしなければならない立場の選手に対し、「全チーム、投手と一回り」の猶予を与えてもらえるほど1軍の世界は甘くはないことは言うまでもない。1軍昇格し、何度か打席をもらっては応えられず、登録抹消というエレベーター状態を数年繰り返した。

だが、その中でも巡ってきた1軍での対戦で経験値を増やし、ファームでは高い打率と本塁打数を残し続け、着々とポテンシャルを磨いていった。そして、いよいよ“慣らし”から完全に卒業したのが2017年8月だった。

「僕の中で、2軍にいるときの4番打者の僕と、1軍での4番打者の僕が一緒になってきたイメージがあります。ファームでは、ベースとして忘れてはいけないのはフルスイングだという基本スタンスがある上で、『このときだったら、こう来そう』『こういうときは、こうだろうな』『ここはこう打たなきゃいけない』など、状況によっていろいろな駆け引きや、やるべきことがあって、それができているのですが、1軍に行ってしまうと、毎回、どうしてもそれを見失ってしまう。時に、それが直ったときには結果が出るのですが、なかなかコンスタントには出せませんでした。でも、ここ最近は一軍で4番に座っても、なんとなく同じような感じで入れている。技術云々というよりも、球の見え方や、相手の守備位置の見え方も含め、毎日毎日同じような感覚で入れていることをすごく大事にしていますし、良い結果を生んでいる理由だと思います」

8月、自身初の月間MVPに選出されると、翌9・10月度、さらには2018年3・4月度と、年をまたいでの3カ月連続受賞という快挙を達成し、ライオンズの新4番打者として一気にスターダムへと上り詰めていった。
2020年、3年連続の頂へ。
ただ、そこで安泰とならないのが、また山川なのかもしれない。2018年の47本塁打という結果を受け、2019年には「50本塁打」を目標に掲げた。「50本打つためには、60本を打つぐらいの気持ちで挑まなければ」とキャンプから高い意識を持ち、シーズン中も「朝起きてから夜寝るまで、とにかく本塁打を打つことだけを考えている」と心身のすべてを打撃に注いだ。本塁打を打てた日は、「最高にハッピー」。打てなかった日は、たとえ3安打しても「悔しい」。そんな、本塁打1本に一喜一憂する毎日だった。しかし、「まさにそれが、足を引っ張ることがあまりにも多かった」。結果として数字こそ「43本塁打」とそこそこ残ったが、不振から4番を外される苦水も飲むこととなり、「ただただ、苦しいシーズンだった」。この悔しさを、決して忘れることはないだろう。

それでも、その苦い経験を最高の肥やしにし、飛躍的な進化を遂げ続けているのが山川という男なのだ。過去を振り返っても同じことが言える。一見、「遠回り」と思われた壁も、すべてが今の彼につながる必要不可欠な経験へと変えてきた。

今季開幕を前に、「やってきたことが正しければ、必ず結果は出る。そして、正しかったと言える自信はあります」と断言した。そして、その自信は「過去の失敗」がもたらしたものだと明かす。あこがれから目標へと変わっても尊敬してやまない中村の打撃フォームを、入団から2年間マネし続け、体得できなかった失敗。そこから“自分の打ち方”を模索、追求し、試行錯誤を重ね、今年、ついに理想的な形にたどり着いた予感がしている。

こだわり続けてきた「飛ばしてなんぼ」の思考を捨て、目線のブレを抑えるべく、足の上げ幅を小さくした新フォームは、すべてのムダを省いた、極めてシンプルそのものだ。最高の武器を身につけ、絶対の自信を持って挑む2020年シーズン、狙うは、中村ですら達成していない3年連続本塁打王。達成すれば、デストラーデ(1990~92年)以来の快挙となる。「今年は、とりあえずデストラーデさんに追いつくことしかできない。なんとしても追いついて、中村さんを超えていきたいです」。

リーグ3連覇、3年連続本塁打王、日本一、そして続くその先…。まだ見ぬ頂へ、新背番号「3」は一心不乱に己の進化を追求し続けていく。
Profile
オレステス・デストラーデ
1962年5月8日生まれ。キューバ出身。6歳からアメリカのフロリダ州マイアミで育つ。1981年にヤンキースとプロ契約を結び、1987年にメジャーデビュー。1988年にパイレーツへ移籍し、1989年シーズン途中に西武入団。1990年から2年連続打点王、3年連続本塁打王を獲得し、リーグ3連覇、日本シリーズ3連覇に貢献。1993年にマーリンズへ移籍。1995年に西武復帰を果たすが、不調でシーズン途中に退団した。引退後は主にテレビやラジオのリポーターなどを務めている。通算成績は517試合、476安打、160本塁打、389打点、42盗塁、打率.262。
山川穂高
1991年11月23日生まれ。沖縄県出身。右投右打。中部商高から富士大を経て2014年ドラフト2位で西武入団。プロ1年目、フレッシュ球宴に「4番・1塁」として出場し、優秀選手賞を獲得。2018年には開幕から四番に定着し、47本塁打を放ち本塁打王、ベストナイン、MVPに輝いた。翌2019年も43本塁打で2年連続タイトル。通算成績は443試合、409安打、134本塁打、356打点、1盗塁、打率.268(2019年シーズン終了時点)。






コラムテキスト・写真協力:ベースボール・マガジン社