since 1951 SPIRIT of KING 獅子の敵は、獅子だ。 特別対談

Vol.4

「獅子生え抜きの稀代のスラッガー」

中西太 × 中村剛也







西鉄黄金期を支えた“怪童”

中西太

1953年の伝説の160メートル弾。
中西太には、信じられないような話がいくつもある。たとえば1953年8月29日には、平和台球場のスコアボードを越え、プロ野球史上最長といわれる160メートル超のホームランを放った。打たれた林義一投手(大映/千葉ロッテの前身のひとつ)は、「(捕れる打球かと思って)ジャンプしたら、ぐんぐん伸びてバックスクリーンのはるか上を越えていった」などと、物理の法則からはありえない感想をもらしている。

160メートルというと、いまのメットライフドームがもし屋根つきではなかったら、スコアボードをかすめたボールは、その勢いで西武球場前駅あたりまで転がっていたのではないか。想像すると楽しいが、その1953年に西鉄入りした豊田泰光によると、「太さんは、あれくらいの打球を何本も打っている。当時は照明が暗くてはっきりしなかったけど、左中間に打った別の一発なんかはどこまで飛んでいったか…。とにかく、もっと大きいのもあったはず」。それでも中西本人は、「160メートルのときは実は、調子が下降気味だった。それにしても、よく飛んだもんだね。もっとも私は懸命に走っているから、どれだけ飛んだかなどわからないんだ」。

あるいは1955年。地面すれすれのライナーが、毎日(現・千葉ロッテ)のショート・有町昌昭の足を直撃した。あまりの打球の速さにグラブを出すこともできなかった有町は当時、高卒2年目で主力級の有望株だったが、「あんな打球、捕る自信がない」とこの年限りで引退している。

南海(現・福岡ソフトバンク)の捕手だった野村克也は、「中西さんがベンチ前で素振りをすると、南海ベンチまで“ブンッ”という音が聞こえてきた。それが評判になってね。後にも先にも、中西さん一人」。そもそも、甲子園でランニング本塁打を2本放った高松一高時代、痛烈なライナーを捕球した二塁手がひっくり返ったことがある。それを見て、評論家の飛田穂洲氏が中西につけた愛称が、「怪童」だった。
1953年の、トリプルスリー。
プロ入りすぐのキャンプでは、最初は「な~にが怪童じゃ」とプロの猛者たち、ハナも引っかけなかったが、すぐにその豪打を認めざるを得なかった。中西本人に、当時の話を聞いたことがある。

「初めてのプロのキャンプは、そりゃあ驚いたね。いやいや、体力とか技術のレベル差じゃない。自分の体力やバネというものには、すぐに手応えを感じていたから。それより本式の野球場で、ピッチャーはマウンドからストライクばかり投げてくれるし、ニューボールを使ってバッティング練習ができる…校庭で、いつストライクがくるかわからない高校生が投げ、しかもつぎはぎだらけのボールを打っていたことからすれば、月とすっぽん」

かくして、プロ1年目の1952年は打率.281、12本塁打で新人王を獲得する。さらに2年目は打率.314、36本塁打、36盗塁で日本プロ野球史上3人目、最年少にしてトリプルスリーを達成。ずんぐり体型でありながら、「ずっと健康優良児で足は速かったね」というのが中西の自慢だった。

その年は本塁打王と打点王を獲得し、打率は2位だったのを皮切りに、もうちょっとで三冠王、という成績が何年続いたことか。ことに惜しかったのが1956年で、4年連続の本塁打王、2度目の打点王の二冠に加えて、打率はトップ・豊田に五毛差の2位。1958年も、ホームランと打率、打点でずっとトップを走っていたが、ペナントレース最終日に大映・葛城隆雄に1打点抜かれた。なんとも惜しい。偉業達成にギラギラし、どこか一度でもなりふり構わずチャレンジすれば、戦後初の三冠王を獲れていても不思議はなかった。

だけど、「三冠王というのが、いまほど騒がれなかった時代だから」と恬淡とし、欲がないのが中西だ。たとえば1956年、豊田と五毛差で迎えた最終戦。前日にリーグ優勝を決めたこともあり、中西は三原脩監督に欠場を直訴した。やはりこの試合に欠場し、首位打者となった豊田は一本気なだけに、タイトルを譲られたようでおもしろくなかったらしいが、中西は「人を押しのけてまで三冠王を獲りたいとは思わないし、そもそもワシは、気が優しいんよ」と意に介していない。
1958年の、“ビッグ・バッファロー”。
それでも見る人が見れば、中西のすごさはすぐにわかった。1958年、セントルイス・カージナルスとの日米野球第8戦では、二死満塁から代打で登場し、左中間にライナーで満塁ホームラン。メジャーの度肝を抜き、試合後には“ビッグ・バッファロー”と呼ばれて記念撮影におさまることになる。

度外れた打球の秘密について中西は、「ワシは体も大きくない。球を引きつけ逆らわずに打つには、シャープネス&クイックネスが必要だった。そして強い打球を打てたのは、鋭い腰の回転と、手首の柔軟性だね」と語っている。ただ、手首の柔軟性は武器である半面、やがて過度な負担が蓄積し、左手腱鞘炎が深刻化していく。1959年からは出場機会も減り、成績も下降線。伝説的な強打者でありながら、一線でばりばり活躍したのは正味7年間と、決して長くはなかった。それでも、中西はさらりと「花は咲きどき咲かせどきというじゃないか」。これも口癖のひとつである。

中西が最後のホームラン王を獲得したのが、ライオンズ三連覇の1958年。そして50年後の2008年には、同じ三塁手、同じぽっちゃり体型の中村剛也が、自身初めてのホームラン王に輝くことになる。ニックネームは“おかわり君”。中西の“怪童”もそうだが、どこか愛敬があるじゃないか。






レオ最強のホームラン王

中村剛也

2008年の、ターニングポイント。
「美しい」

思わず見惚れてしまうほど、中村剛也のホームランは芸術的だ。ゆったりとした構え、力みのないスイング、とらえた瞬間「(スタンドに)入った!」とわかる理想的な角度で飛ばす強烈な打球。そして、観衆の視線を独り占めする長い滞空時間…。ホームランを打てる打者は数多くいるが、これほどまでに“美”を感じさせる一発を打てる選手は、ほかに誰もいない。中村は、孤高の存在なのだ。

2002年、高校通算83本塁打の記録を引っ提げ、ドラフト2位で大阪桐蔭高から入団した。1軍デビューは2年目の9月と決して早くはなかったが、入ったときから打撃センス、飛ばす能力は圧倒的だった。当時の2軍首脳陣も、ほとんど指導の手を加えることはしなかったという。

2005年、1軍で80試合に出場し、22本塁打と頭角を現し始めると、2008年にレギュラーに定着して初の規定打席到達。46本塁打と大ブレークの一年となった。翌2009年、開幕から4番で起用され、48本塁打をマーク。以降、歴代3位を誇る6度の本塁打王獲得(2008・09・11・12・14・15年)、さらに打点王にも4回(2009・11・15・19年)輝くなど、約10年もの間、ライオンズの看板選手として4番に君臨し続けてきた。
2019年の、サヨナラ400本塁打。
2019年までのプロ18年間で、通算415本のホームランを記録している。400号到達は史上20人目となる快挙だが、これほど多くの本塁打を打てる秘訣に、本人は「タイミング」と「スムーズにバットが出て、ムダな力を加えなくても打てるポイントで打つ」ことを挙げる。そして、その理想のポイントで打つために、もう1つ、特に大事にしているのが「力を抜くこと」だという。

「フニャフニャ」と打席での自身を表現するが、その脱力のために最もこだわるのがグリップの握りだ。きっかけは高校2年生のとき。骨折した右手小指をかばってした握りで好感覚を得た。以来、現在でも、利き腕の右手は薬指と中指だけでバットを握っている。ただ、それを「重要ポイント」と認識し、しっかりと意識して取り組むようになったのは2008・09年からであった。右利きは、自ずと右腕の力が強くなってしまうため、しっかりとバットを握ると強過ぎてしまうのだという。「バットに重さがある以上、それを支えるためにも力は入るので、その力だけで十分。あとは、振るとなれば絶対に力は入るので、それだけでオッケーです」

力を入れるよりも、いかに抜くかを常に心掛けている。2011年、「飛ばないボール」といわれた統一球の導入により、プロ野球界全体の本塁打が激減した中で、ただ一人、中村だけは48本塁打と何の影響も受けなかった要因も、このスタイルを貫いたことにあった。誰もが「軽く振っているように見えるのに、あんなに飛ぶ」と感嘆する、あの柔らかく力感のない美しいスイングは、究極の“脱力”が生み出しているのだ。マネをしたくても決して叶わない、唯一無二のスイングと言えよう。

また、数々の記録を打ち立ててきたが、節目の本塁打には、しばしば“逸話”を伴っている。2015年7月24日の日本ハム戦(西武プリンス)で記録した通算300本塁打は、あの大谷翔平(現エンゼルス)から放ち、同時に通算1000安打達成となった。さらに2019年7月19日のオリックス戦(メットライフ)、400号をサヨナラ本塁打で飾ったことは記憶に新しい。近い将来、500号ではどのようなエピソードを添えてくれるのか。今から達成の瞬間が待ち遠しい。
2020年の、本塁打争いへ。
そして、歴代1位の記録を樹立しているのが満塁本塁打数である。2015年に王貞治氏(元巨人)の持つ15本の記録を超えたが、さらに昨年4本のグランドスラムを放ち、通算20本へと更新。勝負強さはさらに増している。

勝負強さといえば、2014年最終戦の楽天戦(コボスタ宮城)だろう。チームメートのエルネスト・メヒアと本塁打王を争っている中、1本差でリードを許していた。負傷でベンチスタートだった背番号60は、7回に代打で登場。見事に34号本塁打を放ち、メヒアと共に自身5度目の本塁打キングに輝いた。

これほど本塁打を量産してきたが、実は「バッティングが嫌い」だと明かす。「打てればいいですが、打てないと本当に悔しい。実際は、打てないことのほうが圧倒的に多いですから」。こうした幾多の輝かしい功績は、その何十、何百倍もの苦悩の積み重ねの結晶なのである。ケガや故障もあった。不振に苦しんだ時期もあった。それでも、“ライオンズの4番”として、常に誇りと責任を背負いバッターボックスに立ち続けてきた。

そんな孤高のキングに、ここ数年変化が訪れた。山川穂高の台頭だ。これまで、チーム内に自分以上に本塁打を打つ選手は一人もいなかったが、2018年47本、2019年43本と、2年連続で本塁打王を獲得し、4番を引き継ぐ逸材が現れたのである。「4番へのこだわりは、もうとっくに捨てました。今のチームは、山川が4番を打つべき」と、その実力は中村もはっきりと認めている。ただ、その一方で、「初めて『負けたくない』と思う存在が現れた」というのも正直な感情だ。昨季、「チームに本塁打を打つ人は何人もいらない。僕が狙わなくてもいいかな」と、本塁打への責任感を若干薄めたことで、打撃の幅広さが増し、135試合に出場し30本塁打、123打点、キャリアハイの打率・286という好成績を生んだ。

とはいえ、「ホームランを打ちたい」という野球人としての欲望は、野球を始めた子どものころから微塵の変わりもない。「山川と、ホームラン争いがしたいね」。重責を肩から下ろし、再びハングリー精神に火がついたキングの進化に、乞うご期待だ。
Profile
中西太
1933年、香川県出身。右投右打。高松一高では3度の甲子園出場、“怪童”の異名を取った。1952年に西鉄入団。新人王に輝くと、翌1953年に36本塁打、86打点で本塁打王、打点王の打撃2冠。以降、1955・56・58年と三冠王に迫る活躍で、西鉄黄金時代を支えた。1956年にはMVPにも輝いている。1962年に監督兼任となり、1963年には優勝も。1969年限りで現役引退、監督も退任した。その後は名打撃コーチとして多くの打者を育てる。1999年、野球殿堂入り。通算成績1388試合、1262安打、244本塁打、785打点、142盗塁、打率.307。
中村剛也
1983年、大阪府出身。右投右打。大阪桐蔭高から2002年ドラフト2巡目で西武ライオンズに入団。2年目に1軍デビューを果たし、2008年にレギュラー定着。“おかわり君”の愛称で親しまれる。主なタイトルはベストナイン7回、本塁打王(2008・09・11・12・14・15年)、打点王(2009・11・15・19年)。通算成績は1664試合、1467安打、415本塁打、1166打点、26盗塁、打率.256(2019年シーズン終了時点)。






コラムテキスト・写真協力:ベースボール・マガジン社