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ライオンズ・クラシック 2010

ライオンズ・クラシック 2010

ヒストリーHISTORY

激動の時代を駆け抜けた太平洋クラブライオンズ。

僅か4年間しか存在しなかったライオンズが、いまの礎になっている。

チームが辿った軌跡を、古き良き懐かしの昭和の歴史とともに振り返る。

ライオンズ史

1973



2/1

長崎・島原でキャンプイン

ビュフォード外野手

2/16

初の海外となる台湾で2次キャンプ

4/14

ロッテ1回戦(平和台)に8-7で勝ち、新球団の初戦を飾る
新外国人のビュフォード外野手の来日1号本塁打で球団初の開幕戦サヨナラ勝ち

5/20

近鉄9回戦(平和台)で梅田邦三内野手がプロ入り1号本塁打を放ち、プロ野球通算3万号。しかし、76年に2万9999本目だったことが判明。
幻のメモリアルアーチになる

6/1

ロッテ4回戦(平和台)に2-5で敗れ、観衆が暴徒化。ロッテナインが警察の護送車で球場を出る

7/8

この年から前後期2期制となり、前期は32勝30敗3分けの4位で閉幕

7/24

球宴第3戦(平和台)は2-1でパのサヨナラ勝ち。ビュフォードが優秀選手賞

8/1

福岡地方の集中豪雨の見舞金として、7月31日のロッテ後期1回戦(平和台)の売上金全額を寄付すると発表

10/14

南海13回戦(平和台)に9-2で勝ち、後期閉幕。27勝34敗4分けの5位で、前後期計59勝64敗7分けで4位

当時のユニフォームはこちら


2/1

浅間山大噴火、12年ぶりに大爆発

7/20

映画俳優のブルース・リー、香港で急死

10/23

江崎玲於奈、ノーベル物理学賞受賞

10/31

オイルショック 尼崎市でトイレットペーパー・パニック。以後各地で買い占め騒動

11/14

関門橋開通

1974

4/6

日本ハム1回戦(平和台)に2-4で敗れ、稲尾和久監督と日本ハム・中西太監督の西鉄対決は中西監督に軍配
元大リーガー、ハワード外野手はひざを故障し交代。1試合出場のみで退団

中西太監督と稲尾和久監督

4/27

ロッテ3回戦(川崎)で本塁上のクロスプレーをめぐり乱闘。ビュフォードとロッテ・金田正一監督退場

4/28

ロッテ4回戦(川崎)で基満男内野手が100号本塁打(77人目)

5/16

試合告知ポスターにロッテ戦での乱闘シーンを使用し福岡市から撤去を要請され回収

7/3

近鉄13回戦(日生)に9-3で勝ち、東尾修投手が11試合目の登板でシーズン初勝利。30勝30敗5分けで前期は3位

7/18

ハワードに代わる新外国人、元大リーガーの首位打者アルー内野手が来日

8/23

阪急7回戦で竹之内雅史内野手が通算100号本塁打(80人目)

9/5

ロッテ8回戦(平和台)で観客がふりまいた酒がロッテ選手の目に入りもみあいに。31分中断

9/29

ロッテ13回戦(平和台)に7-2で勝ち、3連勝で後期終了。29勝34敗2分けで4位
前後期計59勝64敗7分けで4位に終わった

11/19

第10回ドラフト会議で日本鋼管福山の田村忠義投手を1位指名したが、入団にいたらず

当時のユニフォームはこちら


1/16

電力・石油消費規制、国鉄は昼間の暖房停止、百貨店の照明間引きなど

3/7

日本テレビ「ユリ・ゲラーの超能力」放映。反響の電話殺到し電話局の交換機パンク

3/12

フィリピン・ルパング島で救出された元日本兵小野田寛郎氏帰国

5/15

東京・江東区にセブン・イレブン一号店開店

10/8

佐藤栄作前首相、ノーベル平和賞受賞決定

1975

4/8

近鉄1回戦(平和台)で石井茂雄投手が通算600試合登板(12人目)

土井正博外野手

5/11

近鉄6回戦(平和台)は11-4で大勝。移籍1年目の吉田誠外野手の初本塁打2本を含む、白仁天外野手、土井正博外野手2本、江藤慎一監督兼内野手、藤井栄治外野手でリーグタイ記録の1試合7本塁打
吉田はこの2本が公式戦最初で最後の本塁打

5/17

南海5回戦(大阪)で基が通算1000試合出場(181人目)

6/1

ロッテ13回戦(川崎)で近鉄から移籍の土井が通算3000塁打達成(11人目)

6/22

阪急13回戦(平和台)に7-2で勝ち、前期最終戦で勝ち越し決定。30勝29敗6分けで2位に

7/17

近鉄後期3回戦(平和台)土井がサヨナラ本塁打で通算1000打点達成(10人目)

7/22

球宴第3戦(神宮)は3-0でパの勝利。先制2点本塁打を放った土井がMVPに選ばれる

8/24

阪急5、6回戦(西宮)の2試合で日本ハムから移籍の白が8打数5安打で初めて打率トップに立ち、この年首位打者に

8/27

日本ハム11回戦(平和台)で江藤が2000試合出場(10人目)

9/6

近鉄7回戦(藤井寺)で江藤が通算2000本安打達成(9人目)

9/18

阪急7回戦(平和台)で基が通算1000本安打達成(94人目)

10/1

阪急8回戦(西京極)土井が33本塁打を放ち、この年34本塁打でタイトル獲得

10/10

阪急13回戦(西宮)に5-1で勝ち、東尾が23勝目を挙げ最多勝確定で後期閉幕
28勝33敗4分けで4位。前後期計58勝62敗10分けで借金4も8年ぶりのAクラスとなる3位

12/16

来季監督として米大リーグの通算2000勝監督のドローチャー氏と詰めの交渉中であることを発表

12/27

江藤監督兼内野手が退団。ロッテに移籍

当時のユニフォームはこちら


3/10

山陽新幹線、博多まで開通

7/5

沢松和子、全英テニスダブルスで日本女性初の優勝

7/19

沖縄国際海洋博覧会開催

12/10

午前0時、三億円事件の時効成立

12/14

国鉄の蒸気機関車(SL)が引く最後の旅客列車が、室蘭本線の室蘭一岩見沢間を走行

1976

3/15

監督に予定していたドローチャー氏が体調不良のため来日できず、招へいを断念
代理監督の鬼頭政一コーチが第7代監督に正式に監督就任


白仁天外野手

4/22

日本ハム3回戦(平和台)で藤井が通算1500試合出場(50人目)

5/29

近鉄10回戦(藤井寺)で白が通算150号本塁打(43人目)

6/3

日本ハム9回戦(後楽園)で土井が通算350号本塁打(7人目)

6/27

前期終了。21勝36敗8分けで最下位に終わる

7/8

ロッテ2回戦(平和台)に2-1で勝ち、西沢正次捕手がサヨナラ安打。首位に立つ

10/6

南海13回戦(大阪)で白が通算1500試合出場(52人目)

10/10

日本ハム13回戦(平和台)に4-2で勝ち閉幕。 後期は23勝40敗2分けで最下位。前後期計44勝76敗10分けで4年ぶりの最下位。 吉岡悟内野手が首位打者を獲得

10/12

スポンサーが代わりチーム名を太平洋クラブからクラウンライターに変更すると発表

11/13

平和台球場で西鉄-南海のチャリティーOB戦。西鉄は三原脩監督、南海は鶴岡一人監督が指揮を執り6-6の引き分け

11/19

第12回ドラフト会議で福岡・柳川商高の立花義家外野手を1位で指名

当時のユニフォームはこちら


1/31

鹿児島で日本初の五つ子誕生

2/4

第12回冬季オリンピック・インスブルック大会(オーストリア)
日本は65人参加

5/9

植村直己、1万2000キロの北極圏単独犬ゾリ横断を達成

7/17

第21回オリンピック・モントリオール大会(カナダ) アフリカ諸国、人種差別問題でボイコット

9/9

日本ビクター、VHSビデオ発売を発表

(2010年5月14日 埼玉西武ライオンズ調べ)

当時着用したユニフォーム

1973年~75年

'73~'75年着用ユニフォーム
’73~’75年着用ユニフォーム
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'73~'74年着用ユニフォーム
’73~’74年着用ユニフォーム
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1973年、多くのプロ野球ファンが、新生太平洋クラブライオンズが採用した新しいユニフォームを見て度肝を抜かれた。

ビジター用ユニフォームの上着に採用された色は赤。日本球界初の原色カラーユニフォームの登場であった。

それまで野球のユニフォームと言えば、白かグレーか薄いブルーと決まっていた。ところが化学繊維のニット素材が登場して鮮やかな色付けが可能となり、1970年あたりを境にすべてのスポーツウエアはカラー革命の時代に突入していた。すでに大リーグでは緑と黄色のユニフォームを採用し米球界にカラー革命をもたらしたオークランド・アスレチックスが、前年の1972年にワールド・シリーズを制覇していた。

しかし当初、日本球界にカラー革命が押し寄せる気配はなかった。ニットのユニフォームを採用していた球団もあったが、色は従来通り。当時の週刊ベースボールには、「日本のプロ野球のユニフォームは地味でお通夜の喪服」とアメリカ人記者が論評する記事が載っていて、保守的な日本球界がカラーユニフォームを採用するなど考えられなかった。

ところが太平洋クラブライオンズの登場から状況は一変する。赤いユニフォームの採用に難色を示す機構に対して、当時の坂井保之球団代表が「興行であるプロ野球はファンに球場に足を運んでもらって、観戦して楽しんでもらうためにある。ユニフォームは選手を包む包装紙みたいなモノだから派手な方がいい」と説得。日本球界にカラー革命の風穴を開けたのである。これをきっかけに、日本でもカラーユニフォームを採用する球団が続出。まさに革命的なユニフォームだった。

そして7月になるとライオンズはさらにユニフォームのバリエーションを増やした。
ダブルヘッダーの第2試合用としてホームは袖が赤く、ビジターは上着が青のユニフォームが発表された。

この時期のパ・リーグはリーグ存続も危うい状況にあった。人気という面ではセ・リーグに大きく水をあけられ、各チームの球場には閑古鳥が鳴いていた。そんな中でパ・リーグが起死回生の一策として採用したのが前後期2シーズン制であった。

ペナントレースを前後期に分け優勝チームを二つ作れば、短い期間に山場がいくつも訪れる。そんな発想でスタートしたのだが、前期と後期の間に休みが入ったり、日本シリーズまでにプレーオフを終了させなければならないなど、期間的な制約が多くなり、おのずと増えたのがダブルヘッダーだった。

しかしダブルヘッダーは同一カードが2試合。どうしても単調さがつきまとう。そこで観客の目先を変えるために採用されたのが、ホーム、ビジターのセカンド・ユニフォームだったのだ。

しかし翌1974年、2年目にはいるとダブルヘッダーの第2試合用のセカンド・ユニフォームという定義はあいまいになり、赤い袖のホーム用ユニフォームは開幕第一戦から使用された。

ちなみに赤い袖のユニフォームだが、当初背ネームなしだったが、2年目の1974年は“TAIHEIYO CLUB”という背ネームが入っていた。

1976年

'76年前期着用ユニフォーム
’76年前期着用ユニフォーム
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'76年後期着用ユニフォーム
’76年後期着用ユニフォーム
拡大

日本球界初の真っ赤な原色ユニフォームを登場させて、プロ野球ファンの度肝を抜いた太平洋クラブライオンズが、1976年、再びユニフォームでプロ野球ファンをビックリ仰天させた。

赤いユニフォームで赤い旋風を巻き起こしたライオンズだが、1975年に初優勝を果たした広島東洋カ―プの赤ヘル旋風があり、すでに日本球界での赤の稀少価値はなくなっていた。

そこで次に登場させたのが、前後に番号のついたアメフト型ユニフォームだ。ライオンズは野球ユニフォームの概念を再びひっくり返したのである。当時は「こんなのアリなのか?」と多くのファンが驚いたのだが、確かに野球ルールにはユニフォームの胸に番号をつけてはならないとは書いてない。

「最初の赤いユニフォームもそうだったけど、人のやらないコトをやろうといつも考えていたんです。なにしろ太平洋クラブと言っても名義料をもらっているだけ。実態は親会社のない貧乏野球会社。話題作りには一生懸命だったんです」

当時、球団代表だった坂井氏はこう語る。

まるでアメリカンフットボールのジャージのようなスタイルは、この年、米球界往年の名監督であるレオ・ドローチャー氏を迎えるにあたっての、もうひとつの話題作りとして考案されたと言われている。しかし残念ながらドローチャー氏は来日せず、結果、奇抜なユニフォームだけが一人歩きをすることになってしまった。

当時の資料には、ワインカラーのユニフォームと表現されているが、この色は10数回の染色テストの結果、採用されたという。ただしこのユニフォームを着用できたのは一軍選手のみ。二軍は従来の赤と白のユニフォームを着用していた。

しかしチーム成績は21勝36敗8分の前期最下位と散々。

この成績はますます奇抜な胸番号ユニフォームを浮いた存在にしてしまった。

その結果、オールスターゲームが終わったところで胸番号を廃止し、ホーム用は“Lions”、ビジター用は二段で“TAIHEIYO CLUB”と胸マークを装着。結局、胸番ユニフォームは使用期間4ヶ月ほどの短期間で姿を消した。

坂井球団代表は当時のマスコミに「胸番はそれなりに好評だったが、そもそも採用の前提がドローチャーの来日だったのでムード的に無理があった。さらに前期はまったく不本意な成績に終始し、後期から変える気になったんだ。ゲン直し以外の何の意味もありません」と弁明している。

そして翌1977年からはクラウンライターがネーミングライツの新たなスポンサーとなり、チーム名をクラウンライターライオンズと改名。ユニフォームも変更され、結局、後期から登場した新ユニフォームの使用期間も4ヶ月ほど。やはり短い命だった。

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