

激動の時代を駆け抜けた太平洋クラブライオンズ。
僅か4年間しか存在しなかったライオンズが、いまの礎になっている。
チームが辿った軌跡を、古き良き懐かしの昭和の歴史とともに振り返る。
1973 |
チ | ム |
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| あ の 頃 |
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| 1974 | チ | ム |
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| あ の 頃 |
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| 1975 | チ | ム |
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| あ の 頃 |
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| 1976 | チ | ム |
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| あ の 頃 |
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(2010年5月14日 埼玉西武ライオンズ調べ)

’73~’75年着用ユニフォーム
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’73~’74年着用ユニフォーム
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1973年、多くのプロ野球ファンが、新生太平洋クラブライオンズが採用した新しいユニフォームを見て度肝を抜かれた。
ビジター用ユニフォームの上着に採用された色は赤。日本球界初の原色カラーユニフォームの登場であった。
それまで野球のユニフォームと言えば、白かグレーか薄いブルーと決まっていた。ところが化学繊維のニット素材が登場して鮮やかな色付けが可能となり、1970年あたりを境にすべてのスポーツウエアはカラー革命の時代に突入していた。すでに大リーグでは緑と黄色のユニフォームを採用し米球界にカラー革命をもたらしたオークランド・アスレチックスが、前年の1972年にワールド・シリーズを制覇していた。
しかし当初、日本球界にカラー革命が押し寄せる気配はなかった。ニットのユニフォームを採用していた球団もあったが、色は従来通り。当時の週刊ベースボールには、「日本のプロ野球のユニフォームは地味でお通夜の喪服」とアメリカ人記者が論評する記事が載っていて、保守的な日本球界がカラーユニフォームを採用するなど考えられなかった。
ところが太平洋クラブライオンズの登場から状況は一変する。赤いユニフォームの採用に難色を示す機構に対して、当時の坂井保之球団代表が「興行であるプロ野球はファンに球場に足を運んでもらって、観戦して楽しんでもらうためにある。ユニフォームは選手を包む包装紙みたいなモノだから派手な方がいい」と説得。日本球界にカラー革命の風穴を開けたのである。これをきっかけに、日本でもカラーユニフォームを採用する球団が続出。まさに革命的なユニフォームだった。
そして7月になるとライオンズはさらにユニフォームのバリエーションを増やした。
ダブルヘッダーの第2試合用としてホームは袖が赤く、ビジターは上着が青のユニフォームが発表された。
この時期のパ・リーグはリーグ存続も危うい状況にあった。人気という面ではセ・リーグに大きく水をあけられ、各チームの球場には閑古鳥が鳴いていた。そんな中でパ・リーグが起死回生の一策として採用したのが前後期2シーズン制であった。
ペナントレースを前後期に分け優勝チームを二つ作れば、短い期間に山場がいくつも訪れる。そんな発想でスタートしたのだが、前期と後期の間に休みが入ったり、日本シリーズまでにプレーオフを終了させなければならないなど、期間的な制約が多くなり、おのずと増えたのがダブルヘッダーだった。
しかしダブルヘッダーは同一カードが2試合。どうしても単調さがつきまとう。そこで観客の目先を変えるために採用されたのが、ホーム、ビジターのセカンド・ユニフォームだったのだ。
しかし翌1974年、2年目にはいるとダブルヘッダーの第2試合用のセカンド・ユニフォームという定義はあいまいになり、赤い袖のホーム用ユニフォームは開幕第一戦から使用された。
ちなみに赤い袖のユニフォームだが、当初背ネームなしだったが、2年目の1974年は“TAIHEIYO CLUB”という背ネームが入っていた。

’76年前期着用ユニフォーム
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’76年後期着用ユニフォーム
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日本球界初の真っ赤な原色ユニフォームを登場させて、プロ野球ファンの度肝を抜いた太平洋クラブライオンズが、1976年、再びユニフォームでプロ野球ファンをビックリ仰天させた。
赤いユニフォームで赤い旋風を巻き起こしたライオンズだが、1975年に初優勝を果たした広島東洋カ―プの赤ヘル旋風があり、すでに日本球界での赤の稀少価値はなくなっていた。
そこで次に登場させたのが、前後に番号のついたアメフト型ユニフォームだ。ライオンズは野球ユニフォームの概念を再びひっくり返したのである。当時は「こんなのアリなのか?」と多くのファンが驚いたのだが、確かに野球ルールにはユニフォームの胸に番号をつけてはならないとは書いてない。
「最初の赤いユニフォームもそうだったけど、人のやらないコトをやろうといつも考えていたんです。なにしろ太平洋クラブと言っても名義料をもらっているだけ。実態は親会社のない貧乏野球会社。話題作りには一生懸命だったんです」
当時、球団代表だった坂井氏はこう語る。
まるでアメリカンフットボールのジャージのようなスタイルは、この年、米球界往年の名監督であるレオ・ドローチャー氏を迎えるにあたっての、もうひとつの話題作りとして考案されたと言われている。しかし残念ながらドローチャー氏は来日せず、結果、奇抜なユニフォームだけが一人歩きをすることになってしまった。
当時の資料には、ワインカラーのユニフォームと表現されているが、この色は10数回の染色テストの結果、採用されたという。ただしこのユニフォームを着用できたのは一軍選手のみ。二軍は従来の赤と白のユニフォームを着用していた。
しかしチーム成績は21勝36敗8分の前期最下位と散々。
この成績はますます奇抜な胸番号ユニフォームを浮いた存在にしてしまった。
その結果、オールスターゲームが終わったところで胸番号を廃止し、ホーム用は“Lions”、ビジター用は二段で“TAIHEIYO CLUB”と胸マークを装着。結局、胸番ユニフォームは使用期間4ヶ月ほどの短期間で姿を消した。
坂井球団代表は当時のマスコミに「胸番はそれなりに好評だったが、そもそも採用の前提がドローチャーの来日だったのでムード的に無理があった。さらに前期はまったく不本意な成績に終始し、後期から変える気になったんだ。ゲン直し以外の何の意味もありません」と弁明している。
そして翌1977年からはクラウンライターがネーミングライツの新たなスポンサーとなり、チーム名をクラウンライターライオンズと改名。ユニフォームも変更され、結局、後期から登場した新ユニフォームの使用期間も4ヶ月ほど。やはり短い命だった。